行徳生活日記

Web「行徳雑学館」作者の日記

2026年10月20日(火)の日記

台風30号が遠めとはいえ日本の南海上にあるためなのか、10月も下旬に入ろうというのに変に気温が高く、蒸し暑い。夜寝るときも一時は快適になっていたが、ふたたび寝苦しくなってきた。とにかく台風が早く去ってくれないと、同じような状態が続きそうだ。

今日はダンベルエクササイズをやるつもりなので、晩飯は肉多めのものにしようと思った。また、先週に食べた松屋のネオカシミールカレーは期間限定ものだが、やっているうちにもう一度食べたい気持ちになった。

それで、晩飯は松屋行徳南店へ。

ネオカシミールごろごろチキンカレー。それと生野菜。

ダンベルは上半身メニュー。今日は室温が上がり、昼間も冷房を入れていたが、ダンベルをやるときは温度設定をさらに下げる。

2026年10月18日(日)の日記

去年、リタイア生活に入って、まずやり始めたのは読もうと思っていた本を読むこと。地域の歴史についての本と、「スタートレックファクトファイル」をバインダーに綴じたもの。これを午前中にやるようにした。

地域の歴史は郷土史家・鈴木和明氏の著書のうち、買ってあったが読んでいなかったハードカバーのもの5冊から取り掛かった。古典(古文・漢文)の引用が多くて難しいこともあり、時間がかかった。午前の時間のうち半分をこちらに、残り半分をスタートレックファクトファイルに使うようにした。

その5冊は今年の2月頃に読み終えた。以降、地域の歴史についてのものは、過去にいろいろ買って本棚にあるものを再度、読むのを開始。スタートレックファクトファイルはなおも継続中。

地域の歴史の本は、古典の引用が多いものはもうなく、難しいことはない。それで、午前中の時間は3つに分け、他の分野の本も読むことにした。ノウハウ本もあれば、エッセイや小説もある。また、ずっと以前に一度読んだもの、買ったものの途中までしか読んでいなかったものもある。そういう本を徐々に読んでいくようにした。

そして、次に読もうと思うのが小説版「2001年宇宙の旅」の2冊。

左のほうが1977年(昭和52年)に初版が出た旧版。右が翻訳を見直すなどして1993年(平成5年)に初版が出た新版。2冊とも読むつもりだが、まず旧版、そして新版の順で読んでいく。

自分が旧版を買って読んだのは大学1年のときで1980年(昭和55年)の秋ぐらい。1970年代後半に「スターウォーズ」や「未知との遭遇」のヒットでSFブームがあり、映画「2001年宇宙の旅」のことも聞いて興味が湧いた。だけど、その時代は「2001年宇宙の旅」の再上映もTV放映もなかった。映画自体が日本では忘れられた作品というべき状態だった。それで自分としてはまず小説のほうを買って読み始めた。映画は翌1981年(昭和56年)の秋頃に、ようやくTV放映されたので初めて見た。

小説では月面に埋められていたブラックモノリスから発射された電波は土星の衛星に向かっていたので、ディスカバリー号は木星でスリリングショットをやって土星宙域へ向かう。ところが、映画では目的地は木星宙域になっていて、これが小説と映画のいちばん大きな違い。

当時は小説が原作で、それを映画化したのだろうと、漠然と思っていたが、文庫の新版に作者アーサー・C・クラークが序文を寄せていて、小説と映画の脚本は並行作業だったということだ。

また、訳者はどちらも同じ人。訳者が新版のあとがきで言っているが、旧版のほうを訳したときは科学技術関係で意味がちゃんと掴めず、おかしな訳をしたところがあるという。そのひとつが「hard copy」。この言葉の意味はIT用語事典e-Wordsのハードコピーの項に詳しく載っている。元々はデータを紙にプリントすること自体を指したようだが、自分が大学でコンピューター関連の勉強を始め、情報システムの会社に就職した1980年代には、画面に表示されているものを紙にプリントする意味で使われていた。

小説「2001年宇宙の旅」の旧版ではボウマンがHALに「装置のコピーを見せてくれ」と訳されているものが、新版で「ハードコピーを見せてくれ」と訂正されている。

旧版でおかしな訳になった理由は、自分の推測だが、分かる気がする。旧版が出版された1970年代中頃だと、一般のオフィスに業務用の端末装置-ディスプレイ(CRTのもの)とキーボードからなる-もまだ広まっていなかった頃。なので、画面に表示した内容を紙に印刷するという行為自体も行われていなから、ハードコピーという言葉も広まっていない。訳者が「装置のコピー」としたことから考えると、ハードウェアとソフトウェアという言葉は知っていた可能性がある。だから、hard copyとはハードウェアのコピーだと思って、「(ハードウェアである)装置のコピー」としてしまったのではなかろうか。

1980年代中盤以降は端末装置も、あるいはパソコンもオフィスにはどんどん広まりつつあった時代で、多くの人間がキーボードの「PrtSc」キーで画面の表示を紙にプリントするようになり、ハードコピーという言葉も広まっていた。それで、1990年代ににはhard copyはカタカナでハードコピーと言っても通用するようになったわけだ。

ところが、新版が出版されてからすでに30年以上過ぎているが、世の中はペーパーレスが進み、ハードコピーという言葉はもう死語になっている。自分も一昨年までずっと情報システムの会社に勤めてきたが、それは実感している。ペーパーレスが進んだのは、紙の大量消費は森林資源の枯渇を招き、地球の環境を悪化させるということが背景にあった。それまで聞いたことがなかったエコロジーという言葉もいつの間にか広まっていた。また、紙の書類での資料は保管のためのスペースが必要で、電子化することでスペース削減=コスト削減の流れにもなってきた。

今は、例えば作業手順の資料に画面イメージを入れるなら、スクリーンショットをExcelのシートやWordのドキュメントに貼り付けるのが当たり前になっている。パソコンのディスプレイもサイズが大きくなって見やすくなり、持ち運ぶにはノートPCやタブレットがあり、新しいものほどバッテリーの持続時間が長くなっている。だから、紙に出す必要は実際もうない。なので、画面イメージを紙にプリントすることを誰もやらなくなるわけで、その行為を指すハードコピーという言葉は当然、死語になってしまうだろう。

今、「2001年宇宙の旅」小説版の2冊をあらためて読めば、そうした時代の移ろいを他にも見つけることができるかもしれない。

 

昼飯は行徳駅前の珈琲館行徳店で。

ランチセットの珈琲館の特製ナポリタンにする。サラダとドリンクが先に来た。ドリンクは炭火アイスコーヒーにした。

朝の気温は低かったらしいが、昼間は晴れてどんどん暑くなる。コーヒーはアイスを飲みたいと思った。

そして、特製ナポリタン。

晩飯は冷凍揚げもの。ヒレカツを4個揚げる。

昨夜の、イヅツワインの赤を食中酒で飲む。

グラスに2杯半残っていた。なお、1杯はグラスに半分程度の注ぎ方にしている。

2026年10月17日(土)の日記

ランチは行徳駅前のほうへ行く。行徳駅前一丁目の南根公園のそばにはインド料理&バー ナンキッチンという店があって去年の9月27日に一度行った。その後、前を通ると改装工事をやっていて、今日行くと、新しい名前の店になっていた。

Reiwa Dining & Kitchenと言う名前のインド・ネパール料理の店。開店祝いの花が飾られている。

開店したばかりなので、Googleマップを見ても前の店のインド料理&バー ナンキッチンが表示される。これはマップ埋め込みではなくスクリーンショット。

インドの人がやっているインド料理の店も、中国の人がやっている中華の店も、けっこう頻繁に店が変わったりする。今度の店はどれぐらい続くだろうか。

ランチメニューを見て何を食べようか考える。インド料理の店で見かけるがまだ食べたことがないチーズナンのセットを食べてみたいと思った。

いまどきの店らしく注文はスマホでQRコードを読んでやる方式。

チーズナンセット。カレーはほうれん草チキンで辛さは中辛。

ドリンクはアイスネパールティー。

インド料理の店でナンとカレーのセットの多くは、皿やトレーからはみ出すぐらいの大きなナンが載っているのがふつうになっている。だから、チーズナンセットが出てきたときはトレーに納まっているので、ずいぶん貧相に見えてしまった。でも、貧相なのではなく、チーズナンとは、ナンでチーズを挟んだものなので、分量的には同じぐらいだろう。

食べてみると、ナンとチーズのホットサンドのような感じだった。チーズが入っている分、カレーを付けなくてもそれだけでおいしいと思える。でも、しょっちゅう食べるとチーズを含む分、カロリー過剰になりそうだ。

店名の「Reiwa」だが、インドやネパールにアルファベット表記でそんな言葉があるのか調べてみると、なさそうだ。ということは、今の日本の年号の「令和」の時代にオープンしたので、そういう名前にしたのかもしれない。と思っていながら聞きそびれた。

 

夜は家飲み。今日はワインで、イヅツワインの赤。

長野県塩尻にある井筒ワインというワイナリーの製品。スーパーなどの酒売り場で国産ワインを見ると、けっこう高めのものが多い。輸入ものにあるような1,000円程度までのものは見かけたことがなかった。ところが先日、ソコラ南行徳地階のFood warehouseで、1本980円(税別)のものを見つけた。それがイヅツワイン。赤と白を1本ずつ買った。今日は赤のほうを飲む。

井筒ワインは昭和8年(1933年)の創業だという。そういうワイナリーがあることも今回初めて知った。また、ワイナリーのオンラインショップを見ると、自分が買ったのは”スタンダード”でいちばん安いもの。それより値段が高いものもいろいろとあった。

メインのつまみは牛肉とトマトとピーマンのオイスター炒め。鶏もも肉で作ることも多いが、今回は牛肉にする。それと柿ピー(亀田の柿の種)。

締めは冷凍ピザ。セブンイレブンの金のマルゲリータ。

イヅツワインスタンダードはすっきりとした飲み口だった。すっきりしている分、気をつけないとどんどん飲んでしまいそうだ。でも、1本空けることはなく、適当に残した。

2026年10月16日(金)の日記

神社・仏閣めぐりや街歩きは夏の間、中断していたが、暑さも退いてきた。また、8月下旬から9月にかけての天候不順も終わったので、再開することにした。

今回は現在の行徳地区に隣接しているが、これまで部分的にしか歩いたことがないエリアを歩き、神社・仏閣を回ってくる。原木中山駅から江戸川に沿った地域を歩き、市川駅まで行く。このエリアは市川市と合併する前は行徳町の一部で、さらに江戸時代には幕府の行徳領だったところ。町名で田尻、稲荷木、大和田、大洲。

原木中山駅で降りる。

まず、原木中山のメトロセンターで昼飯。定食屋の福徳食堂に入る。

秋刀魚定食生玉子付。

生玉子付ともうひとつは納豆付が選べる。臭い全くなしの納豆なら食べられるが、ちょっとでも匂うものはダメ。食券を券売機で買う店だが、盤面ではどういう納豆か分からないので生玉子にした。そして、生玉子は割って醤油を加えて溶き、玉子かけご飯にして食べる。

サンマが新サンマだったらいいなと思ったが、今年は不漁のためか、去年獲れて冷凍してあったらしきサンマの開きだった。まあ、不漁で出回らないなら仕方ない。この前食べたセブンイレブンの惣菜のサンマも今日のも、一応はサンマだ。食べるとちゃんとサンマの味はした。

食べていたら自分のも周りのお客さんたちのもスマホからも、一斉に緊急地震速報のけたたましい音が鳴り響いた。思わず身構えるが揺れは全然来ない。スマホ画面を見ると、千島列島付近が震源ということだが、遠いので身体で感じられるような揺れが来なかったのではないかと思った。ところが、食べ終わって店を出たあと、再び速報で気象庁から地震速報は取り消しというメッセージが来た。あとでニュースを見ると、地震はやはり起こっていた。しかし震源は千島ではなくカムチャッカ半島付近だったようだ。でも、地震の強さを過大に評価して緊急の速報を送ってしまったらしい。どちらにしても、緊急速報には一瞬ヒヤッとした。

腹ごしらえをして神社・仏閣めぐりを始める。県道船橋行徳線を田尻のほうへ歩く。

社会人2年目からの4年間は原木中山にある独身寮にいて、住所は田尻だった。だけど何丁目だったか、40年近く前ですっかりあやふやになっている。20代の若いころは、地域の神社・仏閣にはまったく関心を持たなかった。神社は初詣、お寺はお葬式のときにしか関わらない場所だと思っていた頃だ。それが、60代の今はこうして神社・仏閣めぐりなどをやっている。

歩いて行くと古い家もまだある旧道らしい雰囲気になる。歩道がなく、幹線道路の県道で車はスピードが出ているから歩きにくいが。

脇へ参道が延び、その先にあるのが日蓮宗圓福寺。


賽銭箱か賽銭の投入口があるところはお賽銭をあげてお参りするが、そうでないところはお参りだけ。圓福寺はお参りだけで本堂前で手を合わせてくる。

すぐ先に、神社とお寺が隣り合わせであった。

神社が田尻日枝神社、お寺が日蓮宗浄教寺。

まず日枝神社へ。

次に浄教寺へ。

古い集落のエリアを抜けると外環道と交差し、さらに市川浦安バイパスの新行徳橋をくぐる。写真は外環道の一般道を越える歩道橋の上から。高速道は地下を通っている。

新行徳橋をくぐると稲荷木に入る。脇道へ入り、住宅地の細い道を行く。

この道に面してあるのが神后社。

村社は稲荷神社があるが、こちらはもっと狭い範囲で祀られているお社という感じのもの。

稲荷木の集落を抜けていく行徳街道の旧ルートへ。

この道に参道入口がある真言宗雙輪寺。

そして村社である稲荷木稲荷神社。

行徳街道の旧ルートが現行ルートと接続する地点の一本松跡が近づいてきた。そこに一本松バス停もあり、停まっているバスの後ろのほうが見える。そして、京葉道路のすぐ脇になる。

かつては八幡方面と市川方面の道の分岐点で、目印に一本松があったということ。

一本松跡には延命地蔵尊がある。

一本松が枯死して伐採されたのは1973年(昭和48年)とのこと。その説明板があり、切り株は残っている。

京葉道路をくぐると大和田。すぐ先に甲大神社がある。

一本松のところから市川方面へ向かっていただろう道を進む。

歩道もしっかりとあり、道も直線的で旧道らしい雰囲気はなくなっている。かつては水田中心だった地域だから、道の整備がしやすかったのかもしれない。

この道は県道283号若宮西船市川線(通称:産業道路)と合流し、やがて千葉街道との交差点で松戸街道につながっている。合流点の少し手前で産業道路に出て渡り、大和田の区画整理された住宅地の道へ入っていくと、日蓮正宗弾正寺がある。


古くからの集落ではない、区画整理された住宅地の中にあるから、比較的新しい時代にできたものだろうと思い調べてみた。すると、建立は1947年(昭和22年)で、現在の場所に移転してきたのは1974年(昭和49年)とのこと。Googleマップで表示されなければ、この場所にお寺があるとは分からなかっただろう。外見も昔からあるお寺らしいお寺とは相当に違う。

産業道路へ戻り、反対側へ渡り、大洲のエリアで南側の街路を入って行く。そこにあるのが大洲神社。神社の先には江戸川の堤防が見える。

大洲神社。社殿の正面。社殿は小さく祠という感じで、脇にある社務所のほうが大きな建物になっている。

この神社は比較的新しく、1973年(昭和48年)にできたものだということだ。その由来の案内板があった。

大洲は江戸時代の行徳領の一部だということは知っていたが、詳しい歴史は知らなかった。元が江戸川河口域のデルタが作った州で、それが大洲の地名の由来。そして、ずっと葦や茅が生えている湿地の状態が近代まで続き、大正時代にようやく耕地整理が始まったという。その後は一部、工場用地に使用されたが、戦後は徐々に住宅地になっていったとのこと(→大洲自治会サイトの地名の由来)。

そういう経緯で村の鎮守はなかったが、住む人間がどんどん増えてきたので作ろうという話になり、作られたのがこの大洲神社だということだ。そして、作られたのは1973年(昭和48年)。

大洲神社から産業道路に出ると道の反対側が大洲防災公園。ここでトイレに入り、休憩もしていく。

大洲は湿地を開墾し、水田だけでなく工場用地としても使われたということだが、防災公園の場所にかつてあったのが明治乳業の市川工場だということ。この工場が移転した跡地が防災公園になっている。開園は2004年の4月で、自分も行ってみてきてWeb(行徳雑学館)のトップページレポートに書いた(→2004年4月18日の記事)。

行徳地区の広尾二丁目の、これもまた工場跡地に広尾防災公園が開園したのは、大洲の6年後の2010年4月。その約1年後の2011年3月末にはやはりWebに開園1年のレポートを書いている(→2011年3月27日の記事)。開園時のレポート(→2010年4月4日)には主に公園全体のようすを書き、災害時の設備のことは書いていなかった。1年後のレポートで書いたのは、やはり2011年3月11日の東日本大震災直後で、そうした設備に意識が向いたからだろう。今日、あらためて大洲防災公園を見てみると、広尾防災公園と同様な設備があるのが分かった。

広場のパーゴラ。災害時にはテントを張り、活動拠点や救援物資の保管に使う目的だということ。

災害時には炊き出し用のかまどになるスツール。

旧行徳町の範囲は大洲までだが、市川南にひとつ神社があるのでそこへも寄って市川駅へ向かうことにする。

産業道路の歩道を歩いて行く。大洲エリアの工場の多くは移転したようだが、かつての北越製紙、現在の北越コーポレーションは残っている。そして、この工場までが大洲の範囲。


自分が2000年代にスポーツタイプの折りたたみ自転車を持っていた頃は、江戸川堤防のサイクリングコースを何度も走った。その頃、この工場の脇を通ると製紙工場から出る臭いがしていた。今日もこの工場の前に来たら臭うのではないかと思ったが、そういうのは感じなかった。20年程度経てば、技術的に改善されることも多いのではないかと思う。

産業道路から市川駅南口に向かう道路へ曲がったところにあるのがリーフシティ市川。こちらは大洲ではなく市川南二丁目だが、京葉ガスの工場跡地を再開発したものだということ。新聞折り込みのマンションのチラシで何度も見たが、実際に来てみたのは今回が初めて。なお、京葉ガスの工場はなくなったが、京葉ガスの本社は道路の向かいにそのままある。

道を曲がるところで目に飛び込んでくるタワーマンションが、リーフシティ市川ザ・タワー。

タワーマンションの北側、緑地や立体駐車場を挟んであるショッピングモールが、そよらリーフシティ市川。

その先にあるのが宝神社。


市川南も大洲と同様、昔から集落があった場所ではなく、この神社が創建されたのは1956年(昭和31年)だということだ。この地域にあった宝製薬という会社の工場敷地内にあった宝稲荷神社の神殿を所有者から譲り受け、土地の鎮守として遷座して創建したとのこと。そうした経緯で宝神社という名称。

宝神社のところから市川駅の南口はすぐ(約300メートル)。

帰りは行徳駅前で食べて行く。高架下のゆで太郎・もつ次郎へ。

もつ次郎メニューのもつ煮定食。

10月中旬はもっと快適かと思ったが、今日の最高気温は25度を超えたようで、しかも晴れて日差しがあったからなかなか暑かった。でも、途中でギブアップしたくなるほど暑いわけでもなかった。

2026年10月14日(水)の日記

老人ホームに入っている母親に会ってくる。今回はその老人ホームがあるところの中心市街地で、一緒に食事をしてそのあとコーヒーを飲んで終わり。帰りは晩飯の時間よりもだいぶん早くなった。

行徳駅を降りてから西友4階の本屋で、デスクの前に掛けている来年のカレンダーを買う。毎年使っている2ヶ月表示タイプの高橋E91。

すぐ開封して、今年分のうしろに掛ける。3ヶ月か4ヶ月ぐらい先の予定を書き込むことがあるからだ。

晩飯は午後6時台に食べに出る。松屋行徳南店へ。

期間限定メニューのネオカシミールカレー。それと生野菜。

カシミールカレーは食べてみるとけっこう辛い。松屋の公式サイトにこのメニュー発売のニュースページがあって、同じ松屋グループのマイカリー食堂で人気があったメニューを食べやすくしたということが書いてある。

マイカリー食堂ではないが、かなり前にカシミールというカレーを食べたことがあった。でも今日、食べるまでカシミールカレーが辛いということも忘れていた。

どこで食べたかというと、地元に短い期間あったカレーの店で。もう17年前の2009年のこと。行徳駅前二丁目の南中央商店街に、中華の店がいろいろ店名が変わりながら続いている場所がある(今は紫源春という店)が、2009年の6月頃から2010年の1月までの半年あまりは2つのカレーの店があった。最初はカレー屋レストラン印度。長くは続かず、そのあとに居抜きでCurry Kitchen カシミールができたが、こちらも長くは続かなかった。メニューはどちらもほとんど同じで、カシミールカリーがあった。食べると口の中がヒリヒリしてくる、かなりの辛さだった。

過去日記を探すとどちらの店でもカシミールカリーを1回ずつ食べている。カレーやレストラン印度では2009年6月27日に、Curry Kitchenカシミールでは2009年12月20日。

松屋のネオカシミールカレーは確かに辛いが、記憶に残っている17年前に食べたカシミールカリーほどではない。確かに辛いカレーだが食べやすい味付けになっていた。

2026年10月12日(月)の日記

洗濯物や買い物などやることもあるから、Web(行徳雑学館)に昨日の五ヶ町例大祭のレポートを作るのをその合間にやり、午後3時半頃にUPした。

一昨日と昨日、けっこう歩いているので今日は脚が疲れてだるい。風呂でしっかり揉んだのが効いたか、一昨日の夜のように寝ているときに急に攣ったりすることはなかった。だけど、今日は歩くときは脚に負担をかけないようにゆっくりと歩く。早足のような地面を強く蹴るのでふくらはぎに力がかかることはやらないように気をつける。

というのも一昨年(2024年)、祭りを追いかけた翌日に買い物に行って歩いていたら、左脚のふくらはぎが肉離れになったというのがあるから。2024年の10月13日(日)は関ヶ島と下妙典の2ヶ所だった(→2024年10月13日の日記)。撮影した画像のタイムスタンプを見ると、祭りを追いかけたのは午前9時半頃から午後3時頃まで。つまり、昼飯の時間を挟んで約5時間半。前後の自宅との間の移動を含めると6時間半程度だろう。ところが、翌日(→2024年10月14日)に買い物に行った帰りに歩いていると、突然、左脚のふくらはぎに痛みが走った。そのときは祭りを追いかけた疲れで脚が攣ったのだろうと思ったが、痛みが引かない。翌日(→2024年10月15日)も痛みが続くので、ようやく肉離れだと分かった。肉離れはひどいものだと歩けなくなるらしいが、痛くても歩けたから軽いものだ。でも、痛みが消えるまで2週間程度かかった。

12年前-2014年の五ヶ町のときは全町の渡御を追いかけようと(さらに同じ日の関ヶ島も追いかけようと)、午前6時のしばらく前に本行徳一丁目に行った。そして、本塩の豊受神社で宮入りしたのが午後8時半頃だったので、15時間近く歩き回ったことになる。自宅との間の移動も加えると16時間ぐらいにはなるだろう(→2014年10月12日)。だけど、肉離れのような不具合もなかったし、特別疲れたという覚えもない。

一昨年に肉離れになったときは、コロナ禍の間、運動不足気味だったのが影響したのかと考えた。だけど、やはり還暦は過ぎているし、加齢による身体の劣化だと思うようになった。ダンベルエクササイズで筋肉の維持には努めているが、祭りを追いかけるような長時間の活動に対する耐久力が落ちてきたのではなかろうか。老化はこういう形で出てくるのかと思えてきた。

そして、去年も祭りを追いかけた翌日は脚に負担をかけないように、ゆるゆると歩くようにした(→2025年10月13日)。今年もまたそのようにする。肉離れになると、軽いものでもしばらく痛みが続き、あまり愉快なものではない。

ゆるゆると歩いて行徳駅前へ昼飯と買い物に行く。空には秋の薄い雲が出ていたが、昼間は日差しが強く暑い。

昼飯はマクドナルドでマックポークセット。ポテトはM→Sに変更。ドリンクはアイスコーヒー。

7月に閉店したマルエツ行徳店が入っていた建物(大徳ビル)は、ずっと工事の覆いが掛けられていたが、取り去られ足場の解体が始まっていた。

ネット上では次に入るテナントの情報が流れているが、徐々にそうしたテナントの入居準備が行われていくのだろう。

昨日は祭りを写しに行くため、決して早朝ではないがふだんの朝と同じぐらいの時間に起きる必要があった。それで、土曜日には飲まなかった。その代わり、今日の夜に飲むことにする。

家飲みで、缶ビール350mlとウィスキーを炭酸割りで。ビールはサントリー生ビール。ウィスキーは9月5日に開封したJ&B RARE。

メインのつまみは鶏もも肉とキャベツの白ワイン蒸し。

チーズ鱈と柿ピー(亀田の柿の種)。

ビールを飲み終え、J&B RAREを炭酸割りにして飲む。

締めは冷凍のビーフドリア。

2026年10月11日(日)の日記

行徳五ヶ町例大祭の本祭りだが、過去に撮影しに出かけたときのことを考えると、本行徳の二丁目と三丁目が他の町と比べ、撮影した量が少ない(神輿渡御を追いかけた時間が少ない)ように思える。それで、今回はこの2つの町の渡御を撮影することにした。

五ヶ町の神輿渡御は本行徳一丁目で午前6時に始まり、そのあとはおおよその目安として各町それぞれ2時間ずつとされている。だけど、多くの場合はどんどん後ろ倒しになっていく。3年前の2023年は強雨で前倒しになっていたようで、おおよその目安では三丁目の時間に、もう四丁目へ渡されて神輿が待機中だった。でも、そういうのは例外的なもの。

さて、おおよその目安時間で三丁目渡御の途中ぐらいになるよう出かけ、寺町通りを通って午前9時10分を過ぎたぐらいに行徳街道の本行徳一丁目に着いた。すると、一丁目の渡御を終えた担ぎ手たちが引き揚げていく姿が見えたので、二丁目へ渡されてからまだそれほど経っていないようだ。つまり、おおよその目安の午前8時からだいぶん過ぎたところで渡されたのだろう。

神輿は呉服の越後屋の少し先にいた。この越後屋の少し手前あたりが一丁目と二丁目の境界。

揉みを終えた神輿は先の三丁目方向へ向かわず、反対方向を向いて一丁目のほうへ進んできた。

と思ったら、旧江戸川方向の脇道へ入っていく。どこへ向かうのだろうと思ったら、行徳児童公園に入っていった。そして、公園の芝生の広場で行徳揉み(写真は差し)。

やはり二丁目に来た回数が今ひとつ少ないためか、行徳児童公園が渡御ルートに入っていることを今回初めて知る。

揉みを終えて休憩。その間に記念撮影が行われていた。

再び行徳街道へ戻るが、今度は反対側の脇道で圓頓寺の参道へ入っていく。そして、圓頓寺脇の道をさらに進む。

その先に休憩場所が用意されていて、そこまで来て行徳揉み(写真は地すり)をやって休憩に入る。

こちらの場所は、かなり前に二丁目渡御のタイミングで来たとき、神輿を探すと休憩中のところに出くわしたことがあった。

行徳街道へ出て要所で揉みを行いながら進む(写真は放り受け)。

さらにもう1回、行徳街道の旧江戸川の側にある大規模マンション-コスモ市川妙典の敷地での休憩があった。その頃になると、三丁目の方向には町の境界で神輿を運ぶ白丁の人たちと、その向こうには三丁目の担ぎ手が集まってきていた。

神輿は三丁目方向へ進む。

境界手前で行徳揉みをやって、担ぎ手たちが渡されまいともと来たほうへ逃げるが、巨大な神輿の揉みはきついようで、2回目の揉みのあと捕らえられ二丁目渡御は終了となった。

白丁が高張提灯、太鼓、榊、そして神輿を運び三丁目に入る。

神官が神輿の前で神事を行う。

三丁目渡御の開始。開始のときは馬(神輿を置く脚)から上げて行徳揉みだが、差しから始まる。

そして放り受け。

そのあと、地すり-差しー放り受けを行う。

行徳街道を進みながら、要所で行徳揉みを行う。

八幡神社の前へ来て行徳揉み。まず地すり。

差し。

八幡神社境内に入るので、その方向を向いて放り受け。

八幡神社に入って行く。

拝殿の前で行徳揉みを行い、神輿を馬に置いて手締めで一旦、終了。

ちょうど正午頃だった。渡御は一時休憩に入る。

自分はここで引き揚げる。最初からその予定だった。12年前の2014年のときは午前6時の一丁目の渡御開始から、日が落ちたあとの本塩豊受神社の宮入まで追いかけた。しかも、同じ日に行われた五ヶ町のとなりの関ヶ島の例大祭も合わせて、静止画と動画を撮影した。そのときで50代のまだ前半だからできたのだろうけど、65歳の今はさすがにもうできない。

本行徳三丁目から本塩の中台神輿の前を通り、市川浦安バイパス沿い富浜三丁目のすき家行徳北店で昼飯にする。2014年のときも神輿渡御が三丁目の八幡神社で休憩に入ったときに、このすき家に来て食べていた。

牛丼並とおしんこランチセット。

帰ってパソコンへ撮影データを移す前に、パソコン用チェアをリクライニングさせ脚載せ台を引き出し、軽く昼寝しようとした。すると、ウトウトしていたら左の足からふくらはぎにかけてが急に攣った。昨日も宵宮でわりと歩いてきたが、夜中に寝ていたら同じところが突然攣って目が覚めた。やはり、身体の老化が徐々に進んでいるのだろう。

晩飯はコンビニ惣菜のにしんの塩焼。副菜だが、冷蔵庫になすとピーマンがあるので、その材料で簡単に作れる煮浸しにする。

五ヶ町例大祭で撮影したものだが、今日はまず、動画の編集とYouTubeへのUPをやる。静止画とテキストだけでは伝わらない実際の動きや音などの情報を補完するためのものなので時間は短め。3分49秒。

あとは、Webのレポート用とこの日記用の縦横サイズを小さくした画像を用意する。Webのほうは明日やることにして、今日はこの日記を書いてしまう。

2026年10月10日(土)の日記

すっきり晴れるのはいいが、昼間は25度超の夏日になる。日が差して室温が上がったときは、20分か30分ぐらい冷房を入れて冷やす。

昼飯は行徳駅前公園の西側にあるイタリアンのヴィヴァリーチェへ。この店が入っているモロマンションはちょうど大規模修繕のもよう。

ランチメニューからボスカイオーラ(キノコとツナのトマトソーススパゲティ)。

 

今日と明日が行徳五ヶ町の例大祭。3年前の本祭りの日は低気圧通過で冷たい雨の中の神輿渡御だった。今年は異常気象というべき8月下旬からの長雨がやっと終わり、2日とも快晴になるようだ。今日は宵宮。天気は穏やかだし、自分のほうはリタイアで時間が取れるようになったこともあるし、久しぶりに宵宮の光景を写しに行く。

午後6時ちょうどぐらいに本行徳一丁目の豊受太神宮に着いた。

拝殿前で出陣を待つ神輿。

拝殿脇で湊囃子連によるお囃子演奏。そばにあるのは子供神輿。

神社がない本行徳二丁目は行徳街道沿いに御神酒所が設けられる。

本行徳三丁目の八幡神社。

行徳街道と鳥居の間にはキッチンカーが来ていた。

鳥居をくぐった先、参道の脇では行徳太鼓連による和太鼓演奏。

本行徳四丁目の神明神社。

舞台が設営されているが、着いたときはまだ何もやっていなかった。午後6時半を過ぎた頃から浦安囃子保存会によるお囃子演奏が始まった。

本塩の豊受神社に来た。

境内の自治会館脇に設営された舞台で演芸会が行われているようだが、それにしても随分と騒々しい。この時間は、どうも地元出身者が組んだロックバンドがライブをやっていたようだ。

豊受神社脇の街路には露天商の店が並ぶ。

ここまで回ってくるのに約1時間かかった。

妙典駅へ戻り、高架下のマーヴ妙典にあるれんげ食堂で晩飯にする。

レバニラ炒め定食。

デジタル一眼レフを持って行ったが、重いカメラを持ち歩いたためか、帰ってこの日記を書いているとどんどん眠気に襲われる。やはり、50代のときと比べて60代半ばはかなり体力が落ちている。

2026年10月8日(木)の日記

千葉市美術館で行われている展覧会へ行く。ランチタイムのピークになる前に昼飯をすませようと、午前11時半頃に千葉駅に着くように出かけた。

JR高架下商業施設の地階にある飲食店街で、築地食堂源ちゃんに入る。

サーモンとアボガドの醤油糀漬け丼。

千葉市美術館で今、行われている企画展は「月と星とー美術がつなぐとき」。千葉開府900周年記念特別展ということ。

美術展の紹介サイトで、この展覧会のことを最初に聞いたとき、千葉の開府と月や星がどうつながるのか分からず戸惑った。いろいろ調べると次のようなことだと分かった。

千葉の開府とは平常重が今の千葉市中央区亥鼻に本拠を移したのが1126年(なので今年でちょうど900年)。そして、本拠を移してから千葉姓を名乗るようになったということだ。千葉氏は守護として妙見を信仰していたということだが、妙見信仰とは北斗星と北斗七星を神格化しての信仰。妙見を人の姿にしたものが妙見菩薩、あるいは妙見様。それで、月や星に関わる古くからの美術作品や現代の美術の展覧会となったようだ。

また、千葉氏に関しては、自分はこれまで調べたことがなく、断片的に聞いた話から漠然としたイメージしか持っていなかった。千葉氏が本拠にしていたので、そこから千葉という地名ができたのかと思っていたが、これはまったくの誤解。千葉という地名は万葉の時代からあるもので、平常重が本拠とした地名を姓にしたのだった。

千葉になる前の姓は平だが、平清盛と同じ桓武平氏の一族。同じ一族と言っても時代を経るほどいろいろな系統に分かれ、主に領地絡みのようだが対立が起こってくる。千葉氏となった系統と平清盛の系統との間にも対立があったようで、その結果、千葉開府から数十年後の源平合戦の時代には千葉氏は源頼朝に付いた。

その後の千葉氏は紆余曲折あったが、大名としては続いていた。しかし、戦国時代に小田原北条氏に付いていたことから、豊臣秀吉の小田原征伐後に所領を没収され大名としての千葉氏は滅んだということだ。

さて、千葉市美術館へ向かう前に寄っていこうと思うところがある。それは千葉氏が妙見を祀った千葉神社。神社から美術館へは約300mですぐ。なお、かつてスポーツタイプの折りたたみ自転車であちこち行っていた頃、家から千葉市中心部まで走ったことがあるが、そのときに千葉神社は来ていた。いつだったか記録を探すと16年前で2010年8月15日。朱塗りの社殿が珍しく、最初はお寺かと思ったら実は神社ということでちょっと驚いた覚えがある。

千葉駅正面からの大通りを歩き、千葉都市モノレールと交差するところで脇へ入る。

200メートルぐらい行くと通町公園。樹木の向こうに千葉神社の朱色の建物が見える。

千葉神社は戦災で焼けて昭和20年代に一旦、再建されたということだが、その後、平成に入ってから今あるような朱塗りの社殿が建てられたとのこと。通町公園の側にあるのが分霊社・尊皇殿。

公式サイトによると「神社建築では類例のない楼門と社殿の複合建築物」だということ。

とはいえ、脇のほうに鳥居がある。

神社の正面玄関はやはり鳥居なのでそちらからお参りする。

社殿。これも珍しい重層社殿だという。境内にはお宮参りや七五三参りに来た人たちの姿があった。

社殿の扁額には祀られている妙見の名。

社殿の向かって左には、千葉天神がある。その案内板。

天神様への祈願として、受験合格、学業向上、ボケ封じ、智恵授けとある。自分はリタイアして、情報システム関係の資格試験を受けることはもうない。だけど、今の年齢だと、ボケ封じは祈願しておいたほうがいいと思え、お参りしてきた。

千葉天神。

建物は戦後に再建された社殿のもので、今の朱塗りの社殿ができるときに移築し、天神様の祈祷所にしたということだ。

次はいよいよ千葉市美術館へ。

通りに面してあるが前の歩道からだと建物全体を写せない。まず、下のほう。

そして上のほう。

円い柱のところが入口かと思ったがそうではなく、脇のところから入るようになっていた。

入口脇に企画展「月と星と-美術がつなぐとき」のポスター。

企画展の受付はエレベーターで上がる8階。ところが1階のエレベーターホールのそばにドアがあり、その向こうがホールになっていて、ポスターに写真が載っている彫刻が展示されていた。ここは入場料なしで入ることができた。

この彫刻は、三沢厚彦「ANIMALS」。写さなかったが他の彫刻も置かれていた。上の翼があるライオン(だと思う)の後ろへ回ると、尻尾が蛇だったり背中に人間の顔があたりする。

自分にはすぐに理解できるものではないが、アーティストの感性とはこういうものだと思うしかない。

8階で入場券を買い、「月と星と-美術がつなぐとき」の展示エリアへ。

最初のほうは原則撮影禁止で、一部に撮影可能なものがあった。その中で興味を感じたものを写した。

田岡春径 妙見尊出現之図。1967年(昭和42年)に壁画として描かれたものを修復したものという。妙見を人の姿に描いたもののひとつ。

この作品を含め、最初のほうで撮影可能なものは千葉市立郷土博物館が所蔵するものだった。

次は江戸時代に使われた星図。江戸後期に西洋のものが入ってくるまでは中国流の星図が使われていたということだ。これは中国から持ってこられたであろう星図。

日本人が初めて星図を作ったのは1699年のことだという。渋川春海・渋川昔伊の「天文成象」。

これは1730年にドイツで作られた天球儀。

古い時代から続く星空への興味を、各時代の人間が形にしたものだが、どうもこのコーナーを見ていると美術館というより科学博物館の展示のように思えてきた。

次は現代アートの展示「月星をめぐるアートの現在、そして未来」に入る。

こちらは原則撮影OKで、一部にだめなものがある。

植松琢麿「SCULPTOR’S SNACK̶ GROUND」

ポップコーンを模した彫刻を散りばめて星々に見立てたのだろうと思った。だけど、解説パネルを読むと、コーンが破裂してできるエネルギーや破裂による反転なども意識されているという。

タイガー立石 (立石紘一)の作品

草間彌生「星雲」

草間彌生はついこの間、訃報が流れた。この人は写真や映像での外見のインパクトがやたらと強いため、そちらが印象として残り、実際、作品を間近に見たことはなかった。だけど今回、作品を間近に見ると引き込まれていきそうな、そうした力を感じさせるものだった。

自分がアート展にいろいろ行くようになったのは、リタイア生活に入った去年から。そして、なかなか印象を言葉にしにくい現代アートだが、まずは行ってみて体感すべしと思えるようになっている。今回もその姿勢で体感することにした。

最初の部屋は複数のアーティストの作品が展示されていたが、そのあとはアーティストごとに一部屋の構成。

宮内由梨「星と領土」

暗い空間で映像を映し出す没入型のアート。

曼荼羅+星図という感じだが、近づいて見ると曼荼羅のようなものに描かれているのは仏様ではなく、みんな骸骨。

渡辺泰子の作品

企画展の展示は8階ともう1フロアで7階。次は7階の展示。

まず、青木野枝「光体」

次は真っ暗な部屋でLEDの照明を使った作品(宮島達男「地の天」)があったが撮影禁止。そこから出たところは1階のホールと同じ三沢厚彦「ANIMALS」。

1階のは特大のものだったが、こちらが本来の大きさなのかもしれない。

川内理香子の作品

髙田安規子・政子の作品

一卵性双子のユニットとして活動しているとのこと。

企画展を見終わり、5階の常設展示を見る。そして、5階ロビーにあった展示で、実はこの千葉市美術館は同じ場所に昭和初期に建てられたネオ・ルネサンス様式の旧川崎銀行千葉支店の建物を、すっぽり包み込むように建てられていると知る。その建て方を鞘堂方式といい、さきほどの1階のホールは保存された旧銀行の建物で、今はさや堂ホールという名前になっているということだ。

前にテレビで、千葉市で古い建物を保存するため、包み込む形で新しいビルを建てたものがあるというのを見たことがあったが、それがどこかということまで覚えていなかった。なので、千葉市美術館がそうだというのも最初は気付かなかった。

帰りに1階へ下りたとき、ロビーから改めて見ると、さっきの1階ホール部分が古い建物だということが分かる。

ドアを出てから見ると、こんな感じ。完全に新しいビルの中に入っているのではなく、一部分は外から見ても分かるようになっている。

行徳駅へ帰ってきたのは午後6時少し前。今の季節はその時間はすっかり暗い。

晩飯はやよい軒でチキン南蛮定食。

サバの塩焼や味噌煮は1,000円を超えていた。チキン南蛮と肉野菜炒めが990円とぎりぎりのところ。しょうが焼はまだもうちょっとだけ安い。だけど、いろんなものが次々値上げになるご時世だ。こういうのも1,000円超になるのは時間の問題かもしれない。

2026年10月7日(水)の日記

昨日は夕方になるほど晴れてきた。その続きで今日は朝からすっきりした晴れだろうと思っていたら、どんより曇っている。スマホで時系列予報を見ても、徐々に晴れマークが後ろになっていく。「まったく何だよこの天気!」と思う。だけど正午近くなってやっと日が差し、青空が見えてきた。

午後12時半頃。昼飯を食べに出たときの行徳駅近く。

駅高架下のCoCo壱番屋へ。

10月ぐらいになると、いろいろな店でカキフライメニューをやるようになる。CoCo壱番屋でもやっているから食べようと思った。

カキフライカレーとヤサイサラダ。ご飯の量とカレーの辛さはどちらも”ふつう”。

市川市のデジタル地域通貨ICHICOの還元キャンペーンが始まっている。使える店は小規模店や個人店が多いが、大型のチェーン系の店もある。還元率は小規模店、個人店はだいたいが30%だが、チェーン系のほとんどは10%。だけど、チェーン系にも30%の店が若干ある。使えるお店一覧(南部版)のPDFを見ると、CoCo壱番屋の行徳地区の3店(妙典駅高架下、行徳駅高架下、南行徳駅北口近く)はいずれも30%。今日、CoCo壱番屋へ来たのはカキフライカレーを食べたいと思ったこともあるが、ICHICOを使うなら還元率の高い店がいいということもある。

晩飯は豚肉こまぎれとキャベツ、ピーマンをコチュジャンと豆板醤の合わせピリ辛炒めにする。副菜はレトルト惣菜のポテトサラダ。

そして、今日はダンベルエクササイズ。下半身メニューをやる。